うなぎ
吉田のうなぎ吉田のうなぎ

荒廃した田んぼから
養鰻に最適な土地へ

身がやわらかく脂のり抜群の吉田うなぎは、町いちばんの人気者。
そんな吉田うなぎの歴史は、大正時代まで遡ります。
大井川の度重なる洪水により被害を受けていた川尻地区。
洪水による土砂が原因で、田んぼの下からは
大井川の冷たい水が湧き出てくるように…。
その結果、稲はうまく育たなくなってしまったのです。
農家は田んぼを諦め、町外へ働きに出るしかありませんでした。
そんな状況を打開しようと立ち上がったのが、久保田恭でした。
“大井川の冷たい水”に目をつけ、川尻で養鰻をはじめたのです。
ここから、吉田うなぎの歴史がはじまりました。

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荒廃した田んぼから

養鰻に最適な土地へ

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身がやわらかく脂のり抜群の吉田うなぎは、町いちばんの人気者。そんな吉田うなぎの歴史は、大正時代まで遡ります。
大井川の度重なる洪水により被害を受けていた川尻地区。洪水による土砂が原因で、田んぼの下からは大井川の冷たい水が湧き出てくるように…。
その結果、稲はうまく育たなくなってしまったのです。農家は田んぼを諦め、町外へ働きに出るしかありませんでした。そんな状況を打開しようと立ち上がったのが、久保田恭でした。“大井川の冷たい水”に目をつけ、川尻で養鰻をはじめたのです。ここから、吉田うなぎの歴史がはじまりました。

吉田のうなぎの歴史

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Yoshida no “UNAGI” History Yoshida no “UNAGI” History
大正11年
久保田恭氏(吉田の養鰻業創始者)が有志17人と任意組合「川尻養魚組合」を設立して、川尻大坪地区の遊休水田に養鰻池を築造。この池で、大井川の豊富な伏流水を利用した鰻の養殖を始め、1.5トン生産しました。
大正15年
漁業や水産加工業が盛んな焼津に近いことから生魚や鰹の頭などの餌料が入手し易く、東京と大阪の2大消費地に鉄道輸送できるという地理的優位さもあり、吉田の養鰻業は順調に発展し、経営体数18、池面積12ヘクタール、生産量68トンとなりました。このとき、日本初の養魚組合となる任意組合「榛原魚田組合」を設立しました。
昭和15年
生産量が1,388トンとなり、戦時休業に入る前のピークの生産量を記録。経営体数も152と大幅に増加しました。
昭和18年
全部の経営体が戦時休業に入り、吉田の養鰻池での生産が一旦ストップしました。
昭和23年
1経営体が4ヘクタールの池で養鰻を再開しました。
昭和24年
水産業協同組合法の施行に伴って「榛原養殖漁業協同組合」が設立されました。このとき、経営体数は3、生産量は9.5トンでした。
昭和26年
経営体数が56となり、生産量も1,005トンと増え、吉田の養鰻生産量は全国の32%を占めるまでになりました。
昭和36年
経営体数が増加し、既存の組合と異なる任意団体「吉田町養鰻同業者組合」が新たに設立されました。
昭和37年
経営体数が280となって、生産量が3,000トンを突破。県内養鰻生産量の57%、全国養鰻生産量の40%を占める国内屈指の生産地となりました。
昭和40年
任意団体「吉田町養鰻同業者組合」が母体となって「吉田うなぎ漁業協同組合」が設立されました。
昭和43年
鰻の加温ハウス池飼育が始まり、生産量も6,201トンとなり、吉田の養鰻生産量のピークを迎えました。
昭和44年
経営体数が420となって、昭和45年まで吉田の養鰻経営体数のピークを迎えました。
昭和47年
「榛原養殖漁業協同組合」と「吉田うなぎ漁業協同組合」が合併し、「丸榛吉田うなぎ漁業協同組合」が設立され、正組合員数399人の養鰻関係漁協として国内最大規模の組合が誕生。このとき、吉田の養鰻業全体の経営体数は402、養鰻池面積は254ヘクタール、売上額は35億円でした。
昭和53年
加温ハウス池面積が28ヘクタールと増え、常に良質な鰻が生産されるようになり、養鰻生産量は3,200トンと最盛期の半分程度ながら、売上額は66億円と生産量のピーク時より25億円増加しました。
平成8年
吉田の養鰻池から露地池が消え、すべて加温ハウス池だけになりました。露地池の減少に伴って、経営体数も激減し、このときの経営体数は39でした。
平成20年
吉田の養鰻を培った「丸榛吉田うなぎ漁業協同組合」は、単独での運営から、焼津養鰻漁業協同組合、大井川養鰻漁業協同組合、中遠養鰻漁業協同組合と合併し、「静岡うなぎ漁業協同組合」の一部となって、静岡県中部一帯が結集して養鰻業の振興に取組む道を選びました。
令和3年
「吉田のうなぎ」を養殖する経営体は11と少なくなりましたが、どの経営体も、吉田の養鰻の歴史の中で培った教訓を生かした高品質の鰻を生産し続けており、また、共に歴史を刻んできた鰻加工業者や鰻料理店も、長年培った確かな技術に裏打ちされた素晴らしい商品を提供し続けています。そして、今も、吉田に育った鰻文化は、しっかりと伝承されています。
大正11年
久保田恭氏(吉田の養鰻業創始者)が有志17人と任意組合「川尻養魚組合」を設立して、川尻大坪地区の遊休水田に養鰻池を築造。この池で、大井川の豊富な伏流水を利用した鰻の養殖を始め、1.5トン生産しました。
大正15年
漁業や水産加工業が盛んな焼津に近いことから生魚や鰹の頭などの餌料が入手し易く、東京と大阪の2大消費地に鉄道輸送できるという地理的優位さもあり、吉田の養鰻業は順調に発展し、経営体数18、池面積12ヘクタール、生産量68トンとなりました。このとき、日本初の養魚組合となる任意組合「榛原魚田組合」を設立しました。
昭和15年
生産量が1,388トンとなり、戦時休業に入る前のピークの生産量を記録。経営体数も152と大幅に増加しました。
昭和18年
全部の経営体が戦時休業に入り、吉田の養鰻池での生産が一旦ストップしました。
昭和23年
1経営体が4ヘクタールの池で養鰻を再開しました。
昭和24年
水産業協同組合法の施行に伴って「榛原養殖漁業協同組合」が設立されました。このとき、経営体数は3、生産量は9.5トンでした。
昭和26年
経営体数が56となり、生産量も1,005トンと増え、吉田の養鰻生産量は全国の32%を占めるまでになりました。
昭和36年
経営体数が増加し、既存の組合と異なる任意団体「吉田町養鰻同業者組合」が新たに設立されました。
昭和37年
経営体数が280となって、生産量が3,000トンを突破。県内養鰻生産量の57%、全国養鰻生産量の40%を占める国内屈指の生産地となりました。
昭和40年
任意団体「吉田町養鰻同業者組合」が母体となって「吉田うなぎ漁業協同組合」が設立されました。
昭和43年
鰻の加温ハウス池飼育が始まり、生産量も6,201トンとなり、吉田の養鰻生産量のピークを迎えました。
昭和44年
経営体数が420となって、昭和45年まで吉田の養鰻経営体数のピークを迎えました。
昭和47年
「榛原養殖漁業協同組合」と「吉田うなぎ漁業協同組合」が合併し、「丸榛吉田うなぎ漁業協同組合」が設立され、正組合員数399人の養鰻関係漁協として国内最大規模の組合が誕生。このとき、吉田の養鰻業全体の経営体数は402、養鰻池面積は254ヘクタール、売上額は35億円でした。
昭和53年
加温ハウス池面積が28ヘクタールと増え、常に良質な鰻が生産されるようになり、養鰻生産量は3,200トンと最盛期の半分程度ながら、売上額は66億円と生産量のピーク時より25億円増加しました。
平成8年
吉田の養鰻池から露地池が消え、すべて加温ハウス池だけになりました。露地池の減少に伴って、経営体数も激減し、このときの経営体数は39でした。
平成20年
吉田の養鰻を培った「丸榛吉田うなぎ漁業協同組合」は、単独での運営から、焼津養鰻漁業協同組合、大井川養鰻漁業協同組合、中遠養鰻漁業協同組合と合併し、「静岡うなぎ漁業協同組合」の一部となって、静岡県中部一帯が結集して養鰻業の振興に取組む道を選びました。
令和3年
「吉田のうなぎ」を養殖する経営体は11と少なくなりましたが、どの経営体も、吉田の養鰻の歴史の中で培った教訓を生かした高品質の鰻を生産し続けており、また、共に歴史を刻んできた鰻加工業者や鰻料理店も、長年培った確かな技術に裏打ちされた素晴らしい商品を提供し続けています。そして、今も、吉田に育った鰻文化は、しっかりと伝承されています。
そんな、吉田のうなぎを味わう、取り寄せる。 そんな、吉田のうなぎを味わう、取り寄せる。
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