明治初期以前~昭和20年頃
地曳網漁法によるシラス漁が行われていました。吉田町史下巻第5章「郷土の産業」の「明治初期の漁」(147頁)に、「吉田村は春は地曳網で、いわししらす・あじ・たち・たいなどを捕らえ、…」との記述があります。また、同第29章「吉田港の発展」の「吉田漁港の発展」(797頁)に「戦前は地曳網で操業していたが、…」と記述があります。
しらす
吉田漁港は、吉田町の真ん中を南北に流れる湯日川(ゆいがわ)の河口付近にある駿河湾に面した漁港です。しらす漁を主力とした吉田町が管理する漁港で、静岡県内主要6漁港※1の1つとして県内有数のしらす漁獲高を誇ります。
栄養豊富な大井川の水が流れ込むことで良質なプランクトンが育ち、沖合に黒潮が寄せるデルタ地帯状の海底を有する吉田漁港では、漁船のほとんどが大井川河口域の駿河湾をしらす漁の漁場としています。
しらす漁は3月下旬〜1月中旬までを漁期、1月中旬〜3月下旬までを禁漁期間とし、資源保護についても徹底しています。
※1しらす漁の静岡県内主要6漁港…吉田・舞阪・新居・福田・御前崎・用宗
吉田のしらす漁はカタクチイワシ、マイワシ、ウルメイワシの稚魚を対象とし、主に水深4~5mの浅海で操業しています。水揚げしたしらすはすぐに競りにかけ、漁港付近に店舗を構えるしらす加工業者が引き取ります。長い歴史の中で培われた高い技術力のもと、卓越した美味しさ・美しさを兼ね備えた鮮度の高いしらす加工品が出来上がります。
吉田町内では10のしらす加工業者が腕を競い、それぞれが秘伝の技を駆使してオリジナリティ溢れる商品を生み出しています。加工品をはじめ生しらすを販売する店舗もあり、吉田町内で様々なしらす商品をお楽しみいただけます。
明治初期以前~昭和20年頃
地曳網漁法によるシラス漁が行われていました。吉田町史下巻第5章「郷土の産業」の「明治初期の漁」(147頁)に、「吉田村は春は地曳網で、いわししらす・あじ・たち・たいなどを捕らえ、…」との記述があります。また、同第29章「吉田港の発展」の「吉田漁港の発展」(797頁)に「戦前は地曳網で操業していたが、…」と記述があります。
明治41年頃
中型船が停泊できる港をつくる必要性を痛感していた地元の船大工“寅番匠(とらばんじょう)”こと「柳原寅吉氏(後の柳原伊兵衛氏)」が、湯日川河口に私財を投げ打って中型船が停泊できる漁港を建設しました。(番匠とは、船大工・親方の愛称だったと伝えられています。)
昭和22年~昭和23年頃
2艘曳きの船曳網漁法※2によるシラス漁が始まりました。
※22艘曳きの船曳網漁法…網船、手船、運搬船の3隻の船が1つのチームとなり、網船と手船の2隻で海中に網を流してシラスを捕獲する漁法。水揚げしたしらすは運搬船で港に運ぶ。
昭和24年9月1日
吉田町の漁業関係者758人が「吉田町漁業協同組合」を設立しました。
昭和27年2月12日
湯日川河口部を利用した吉田漁港が、農林省からその利用範囲が地元の漁業を主とする第1種漁港に指定されました。
昭和31年7月
第1種漁港に指定された吉田漁港の整備に本格に着手し、近代の吉田漁港の歴史が始まりました。
昭和36年5月4日
整備が進んだ吉田漁港は格上げされて、農林省からその利用範囲が第1種漁港よりも広く、また全国的な範囲までには至らない第2種漁港に指定されました。
昭和36年12月
吉田漁港がシラス漁を主な操業とした第2種漁港として開港(町制施行60周年記念の吉田町町勢要覧の「吉田町のできごと」から)し、その後も漁港としての機能強化を図るために切れ目なく様々な整備が進められました。
昭和63年3月
機能アップした新たな荷捌施設、事務所、漁村センターが完成し、主要施設を移転させて現在の吉田漁港の姿となりました。